中島歌子(なかじまうたこ) 弘化元年12月14日〜明治36年1月30日(1844-1903)
歌人。幼名、登世(とせ)。別名、池田歌子。父、江戸日本橋北鞘町の中島又右衛門(二女)。江戸日本橋生まれ。文久元年(1861)18歳で水戸藩士林忠右衛門(左衛門説あり)へ嫁ぐが、元治元年(1864)夫は、水戸天狗党の乱で下野国部田原で戦病死し、一時、歌子も水戸反対党に捕らえられ数ヶ月間投獄される。獄中では悠然としていたという。その後、歌子は桂園派加藤千浪(かとうちなみ:?-1877)に師事し歌道を修め、書も勉強した。夫の没後、歌子は宮中御歌所派の小出粲(つばら:1833-1908)、高崎正風(まさかぜ:1836-1912)、伊東祐命(すけのぶ)らの支援で東京小石川安藤坂に歌塾「萩の舎塾」を開き、和歌・古典・書道を教授。門人中に三宅花圃(みやけかほ:1868-1943)・金枝玉葉・樋口一葉(ひぐちいちよう:1872-1896)・田中みの子・田辺花圃らがいる。「萩の舎塾」は、梨本宮妃をはじめ皇室を含めた上流夫人やその娘たちが挙って通っていた歌塾で、門弟が1000人を超えたという。日本女子大国文学教授。宮内庁に御歌所の寄人として招かれたが病弱を理由に固辞。60歳。歿日、特旨をもって従七位に叙せられる。歌集:「萩のしずく」。歌日記:「秋の道しば」。
墓は、谷中霊園乙3号9側。当ブロック北側入り口。正面「従七位中島歌子之墓」。隣接する網谷幾子(明治25年6月3日歿)墓は母、中島又右衛門(安政5年12月15日歿)墓は父。中島庸は、歌子の養子。同域にある「大森家之墓」は、中島庸の長女晶子の嫁ぎ先の墓で、晶子が合祀されている。歌子の墓碑は、中島庸の建立であるので、昭和になって再建されたものと思われる。