平沢道次(ひらさわみちつぐ)     天保14年〜大正11年1月22日(1843-1922)

    石川島造船所専務取締役。父、広島県佐藤鼎三(二男)。東京本郷出身。のち、平沢家を継ぐ。備後福山藩士陸軍軍吏。24歳で藩通商役となり、北海道開拓に従事。廃藩置県後、大蔵省に出仕。のち陸軍省に異動し会計軍吏。陸軍1等監督。日清戦争時は、臨時支払命令官。明治33年(1900)退官。石川島造船所専務取締役。豊山護法銀行頭取。日韓瓦斯電気会社監査役。明治40年(1907)辞職。正五位勲3等旭日中綬章。80歳。

※ 平野富二の顕彰碑の発起人の一人。

墓は、谷中霊園 甲6号4側。正面「平沢家之墓」。「徳光院真誉顕道居士」。養子の平沢平八郎(1870-1890)の墓碑も同域にある。

※ 平沢平八郎: 明治3年〜明治23年9月24日。父、関野清一(三男)。明治8年(1875)平沢道次の養子となる。東京大学を卒業し法学士となるが、わずか20歳で没する。