平野富二(ひらのとみじ)    弘化3年〜明治25年12月3日(1846-1892)

    石川島播磨重工業創始者。若くして本木昌造(1825-1875)に見出されて長崎製鉄所機関手候補となる。昌造に汽船航法等を学び、慶応2年(1866)回天丸を江戸へ回航、慶応3年(1867)土佐藩で藩船機械方、翌明治元年(1868)一等機関士となり、昌造のあとを継いで長崎製鉄所所長となるが翌年辞職。日本語の鋳造活字を考案した昌造を助けて長崎活版所を経営し、明治5年(1872)昌造の東京活版所の創立で東京に移り、印刷機械の製作に従事した。明治6年(1873)東京築地活版製造所に発展させ、活字のみならず日本で初めて日本語用鋳造活字印刷機を作る。明治元年(1868)に長崎に完成した洋式近代的ドックである小菅修船場を明治政府が買収し、長崎製鉄所の付属とした折に、製鉄所とドックの所長に24歳の平野富二を就任させた。明治9年(1876)日本最初の民間造船所である石川島平野造船所(現、石川島播磨重工)を石川島に設立し、鋼鉄・砲艦等の製造をした。また最初の鉄橋である隅田川の吾妻橋を架設した。47歳。贈従五位。孫に法学者の平野義太郎がいる。

墓は、谷中霊園乙11号14側。顕彰碑は、甲1号1側、さくら通り沿い。東京築地活版製造所専務取締役・名村泰蔵、石川島造船所専務取締役・平沢道次ら多数により明治37年(1904)に建立された。福地源一郎撰文。墓のそばにある「平野富二碑」は、明治31年(1898)に長崎・禅林寺の富二の母親の矢次美祢(やつぐみね)の実家矢次家墓域にあったものを当墓域が破却されてしまったので平成13年(2001)に谷中霊園に移したもの。「修善院広徳雪江居士」。