市橋長義(いちはしながよし)/市橋長和(ながかず)    文政4年5月8日〜明治15年1月17日(1821-1882)

    近江西大路(近江仁正寺)藩主(最後)・市橋家10代。父、出羽庄内藩主酒井忠器(ただかた)(四男)。養父で叔父、第9代藩主市橋長富。酒井忠発の弟。壱岐守のち下総守。幼名、鋼三郎。名、長和のち長義。正四位。滋賀県出身。弘化元年(1844)10月7日の長富の隠居に伴い後を継ぐ。文久3年(1863)仁正寺の地名を西大路と改める。高島秋帆が藩邸に幽因されると、礼をもって砲術・蘭語を習うこと2年。ペリー来航後、海岸の防備に努め、佐幕派から次第に新政府寄りに転向、奥羽征討の軍に従う。明治元年(1868)の東京奠都において、明治天皇の守護と京都警備に務めた。のち版籍奉還により西大路藩知事となり、廃藩置県で免官されて明治4年(1871)東京へ移った。明治天皇守護の功績から、早くから華族に列せられていた。62歳。子に子爵市橋長寿(長男)・娘(市橋長道正室)など。

墓は、南泉寺墓地(西日暮里3-8-3)。水場をとおり中央通路を高台方面に登り、ほぼ登りきったところの階段を右に上がる。正面「正五位市橋長義墓」。「長徳院殿仁岳宗義大居士」。