市河寛斎(いちかわかんさい) 寛延2年6月〜文政3年7月10日(1749-1820)
書家・漢詩人。名、世寧・子静。字、嘉祥。通称、小左衛門。号、半江・半江漁人・西野嘉祥・寛斎・江湖詩老。群馬出身(江戸川越藩邸にて出生)。父、市河蘭台(好謙)(二男)。養父、多胡碑を世に紹介した高橋道斎。はじめ父から書を学ぶ。安永5年(1776)関松窓の紹介で昌平校に入る。のち複数の師を得て自身の書法を確立。江戸にて林正良大学頭に師事。安達文仲の詩社に入る。天明3年(1783-1787)昌平校学員長、寛政元年(1789)神田お玉が池に「江潮詩社」を創設し、柏木如亭・小島梅外・大窪詩仏・菊池五山らの多くの詩人を養成。寛政3年(1791)越中富山藩前田家に仕え藩校教授。吉原に遊び玄味居士の戯号で「北里歌」を作詞刊行。我が国の奈良時代から平安時代末までの漢詩約3,800首を収集し、漢詩人別に編成配列した「日本詩紀」を編纂、目録一巻、本集五十巻、別巻一巻、外集一巻、都合五十三巻から成る漢詩集である。子に市河米庵がいる。著書:「金石私誌」、「寛斎摘草」、「全唐詩逸」など。
墓は、本行寺(荒川区西日暮里3-1-3:日暮里駅谷中口前)。山門より本堂左脇通路を行き、本堂裏から8本目の通路を右に、3本目の通路を左へ、JR線路寄り。説明板がある。正面「文安先生市河子静墓銘」。「文安院寛斎日長居士」。