飯田宣之(いいだのぶゆき)/飯田直之丞(いいだなおのじょう) 天保10年9月11日〜明治40年8月25日(1839-1907)
彰義隊員のち徴士・東京養育院副院長。初名、丹野蔵之助のち直之丞。号、古堂。父、丹野定右衛門(三男)。宮城県出身。仙台で松本亮之助に師事し朱子学を学ぶ。のち藩主に従い江戸に出る。京阪で遊学。図書頭林鶯渓に入門。慶応2年(1866)長州征伐の役で幕府黒鍬組飯田政之助が戦死の後、その後を継ぐ。慶応3年(1867)撤兵指図役・交際役に抜擢される。戊辰の役にのち彰義隊員となる。のち悔悟して徴士となる。明治5年(1872)文部省出仕。明治10年(1877)東京養育院副院長。外国語学校教授。下谷区会議員。東京府学務委員。明治21年(1888)神奈川監獄署教誨師。明治31年(1898)横須賀監獄署教誨師。明治34年(1901)辞職。68歳。
墓は、谷中霊園 甲4号6側。さくら通りに面する。正面「飯田直之丞墓」。略歴あり。