生駒親敬(いこまちかゆき)     嘉永2年11月7日〜明治13年9月9日(1849-1880)

     出羽矢島藩主(最後)。父、生駒親道。江戸出身。讃岐守。安政2年(1855)家督を継ぎ交代寄合生駒家第13代当主。戊辰戦争では秋田藩・本庄藩とともに勤王の誠意を示したため、仙台藩・庄内藩などの敵となり、庄内藩の侵攻を受け領土を攻略され、矢島陣屋を奪われる。明治戊辰秋田の官軍とともにこれを奪還した。戦後、これらの功績を評価され明治2年(1869)賞典250石を賜り藩知事に叙任、従五位に叙された。版籍奉還により矢島藩知事。廃藩置県で免官。32歳。贈従四位。
高松藩17,1800石の領主であった生駒高俊が家中不取締りを理由に、領地を没収され、矢島1万石の配流となったのが、矢島藩の始まり。その後、高俊の子高清が弟の俊明に2000石を分けたため、生駒氏は1万石を割り大名の資格を失い、8000石の交代寄合となった。その後、戊辰戦争での功績を評価され15,200石となり、矢島藩が復活したが、版籍奉還により矢島県となり短命となった。「洪運院太岩義秀居士」。

生駒親承(いこまちかつぐ)      ?〜明治19年(?-1886)

     羽後矢島領主・東京府華族男爵。生駒親敬の後を継ぐ。明治17年(1884)男爵。父、生駒俊徳(長男)。夫人は、生駒親敬の長女洋子。

生駒慶男(いこまよしお)    明治37年5月6日〜大正8年8月8日(1904-1919)

    男爵。父、羽後矢島藩主親敬(ちかゆき)の後裔生駒親忠(長男)。弟の光男を養嗣子とする。「正覚院殿男爵智宏慶男居士」。

親道−+−親敬−−親承−−親忠−−慶男−−光男−−道孝−−道敬−− 一敬  (太字は男爵)
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    +−道洽

墓は、養福寺墓地(西日暮里3-3-22)。山門を入り、右側の墓地。鐘楼横を入りすぐ左側。正面「生駒家之墓」。墓誌には慶男だけであるが、親敬・親承も合祀されている。また、通路の向いには、生駒道洽墓(写真下)「実相院殿静和道洽居士」がある。ちなみにH.N.もへい様によると、生駒親忠と生駒道孝は、浅草の河童橋にある海禅寺という江戸期の菩提寺に合祀されている。なお、生駒高俊と生駒親興の合祀墓も養福寺境内にある。