河田重(かわだしげ)    明治20年7月25日〜昭和49年2月17日(1887-1974)

    日本鋼管社長。父、河田綾之助(長男)。茨城県出身。東京帝国大学卒業。大正5年(1916)太陽生命入社。社内の封建的社風を嫌い退職。日本鋼管に転社、以後、労務問題を担当し昇進。のち、日満鋼管常務。昭和22年(1947)社長。戦後の鉄鋼業界の復興に務め、南武線払下げに貢献。昭和33年(1958-1972)龍ヶ崎カントリークラブ理事長。昭和38年(1963)会長。河田重を団長とし、12名からなる政府派遣貿易使節団がアンデス諸国(コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリヴィア、チリ)を1カ月間に渡り訪問。同年癌研究会理事長。昭和41年(1966)相談役。産業合理化委員会鉄鋼部会長として鉄鋼合理化を指導。。日経連・経団連各常任理事。日本鉄鋼連盟顧問。著書:「急がず焦らず」。86歳。

※ 人間というものは、いつ、どういう仕事にぶつかるかしれないものである。そのときに、その仕事を責任をもってやれるだけの準備を平生しておくのは大事な心掛けだと考える。それが、いわゆる勉強であり修養である。

墓は、寛永寺第3霊園。「北村西望」墓の右、1つ空けた隣り。正面「河田家之墓」。「徳風院殿鉄翁重光大居士」。河田綾之助も合祀。