川路聖謨(かわじとしあきら)    享和元年4月25日〜慶応4年3月15日(1801-1868)

    幕末の幕臣。開国派。通称、左衛門尉。号、敬斎。父、日田の代官家臣内藤吉兵衛。江戸に出てから川路三佐衛門の養子となり川路歳福と名のった。また、漢詩人友野霞舟の門下へ入る。文化10年(1813)元服、萬福(かずとみ)・川路聖謨と改名。幕府に仕え小普請組より累進。天保6年(1835)寺社奉行時代に出石藩の「仙石騒動」をうまく裁いて勘定吟味役に抜擢される。幾つかの奉行職を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行となり、外国奉行であった弟の井上清直とともに幕末外交に活躍した。嘉永6年(1853)ロシアのプチャーチンとの外交が有名。相次ぐ外国船の来航から国防のため東京湾に台場(一部残存しお台場として知られている)を築いた。将軍後継問題で井伊直弼(いいなおすけ)により一時左遷されたが、文久3年(1863)に外国奉行として復帰。慶応4年(1868)江戸城開城の翌日(台東区教育委員会の説明板には、「直前」とある)ピストル自殺した。大正元年(1912)に贈従四位となる。「東京掃苔録」では、享年72歳。

墓は、大正寺墓地(池之端2-1-21)。奥に入り途中左に曲がった奥近く右側。「誠恪院殿嘉訓(利)明弼大居士」。カッコ内は、「東京掃苔録」による。都指定史跡。