友野霞舟(とものかしゅう)    寛政3年〜嘉永2年6月24日(1791-1849)

    漢詩人・幕府需官。名、渙(あきら)。字、子玉。通称、雄助。父、御徒押源兵衛。江戸出身。少年時代に隣りの辺見氏に就いて句読を習う。赤井東海(1787-1862)に師事。その後昌平校に入り野村篁園(のむらこうえん:1775-1843)に師事。文化14年(1817)学問所出役。天保13年(1842)昌平校儒員。甲府徽典館学頭を経て昌平黌教授となる。友野霞舟が子供時代に痘を患い、そのときのうわ言がみな「文選」の賦だったという逸話がある。蜀山人(1749-1823)の門人でもあったが、白山の本念寺に蜀山人の墓を作り、お金がなく墓碑銘を彫ることができなかったという。門下に川路聖謨(かわじとしあきら)・浅野梅堂。59歳。著:「煕朝詩薈」百十巻、「錦天山房詩話」二巻、「霞舟吟」一巻、「霞舟文稿」一巻等。

墓は、宗林寺(谷中3-10-22)。山門右側墓地の道路寄り中程。「友野霞舟先生墓」、「静慎院霊光道覚居士」。墓碑名以外に記載なし。隣接する「綾部孺人之墓」とは霞舟の夫人墓。