浅野梅堂(あさのばいどう)/浅野長祚(ながよし)    文化13年6月9日〜明治13年2月17日(1816-1880)

    書画鑑定家。名、長祚。字、胤卿。号、梅堂・池香・蒋潭・五万巻堂主人。赤穂城主浅野氏の支族。飯田町黐の木坂で生まれる。3500石の旗本。天保12年(1841)目付。天保13年(1842)甲府勤番支配。弘化2年(1845)先手鉄砲頭。弘化4年(1847)黒船来航時の浦賀奉行。嘉永2年(1849)相模湾に英艦マリナー号が停泊した際に対応に当たる。嘉永5年(1852)京都町奉行、北町奉行を務めた。京都町奉行のときに歴代山陵の調査に務め、所在を考査して所司代に報告する。安政元年(1854)京都在勤時に皇居炎上後は、作事奉行を兼ね川路聖謨らと共に禁裏造営掛となる。「御営誌」という図入りの書5冊を編集し、朝廷に献上する。井伊直弼が大老になると、左遷され安政6年(1859)免職となる。文久2年(1862)寄肝煎。文久3年(1863)作事奉行。慶応3年(1867)に退官し向島白髭にて隠棲し、詩文を詠み書画を愛し静かに過ごしたが、のち入谷に移り住んだ。また、図書蒐集の趣味を持ち自ら"五万巻堂主人"と号す。中国書画の研究と鑑識に優れたものがあった。椿椿山(1801-1854)および友野霞舟の弟子。安立院には梅堂の書画が多数保存されている。従五位中務少輔。大正4年(1915)贈正五位。65歳。著書:「銘心録」、「書画記」。

墓は、安立院墓地(谷中7-10-4) 。墓地入口より20m。大きな碑がある。正面「浅野家之墓」。「文荘院殿梅堂帰夢軒居士」。