菊地松軒(きくちしょうけん)    文化3年〜明治19年4月17日(1806-1886)

    漢学者。名、駿助。号、松軒・千里。昌平黌教官。文部・内務・司法3省および編纂所出仕。漢学塾(迎曦塾)を開く。塾は質素で、門扉は無く門柱のみであったが、新鮮で生き生きした趣きが漂っていたという。菊地松軒塾の門下生に、15歳で通った幸田露伴がいる。80歳。著書:「徳川禁令考」、「峡中記遊」、「松陰吟稿」。

墓は、谷中霊園乙4号5側。乙4号は1側から6側まで高低2セットあるが、高地(上)側。正面「松軒先生墓」。写真でわかるとおり、菊地の「ち」は、地球の「地」であるが、インターネット上では、「池」の情報も多い。墓石の側面には、弟子19名の名前も書いてある。「観量院是法日修大居士」。