小室樵山(こむろしょうざん)    天保13年〜明治26年10月15日(1842-1893)

    書家。号、樵山。本名、高橋正春。初め下谷金杉に住み、のち御徒町に移り、晩年は、金杉に戻る。萩原秋巖につき細・楷書を研究。築地活版所や弘道軒の活字体のひとつである「弘道軒清朝体(こうどうけんせいちょうたい)」の母字を書いた。「弘道軒清朝体」は明治初年東京赤坂区長であった神崎正諠の着想で作られた。尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」に用いられていることでも知られている。巻菱湖--巻菱潭--小室樵山らの書風はかなり似ているので、巻菱湖・菱潭らによる手習手本の大量の出版活動が、清朝活字が作られた素地となったものと考えられる。生涯官に仕えず、大沼枕山・小野湖山・中根半嶺との交流をする。「俊徳塾」を開設し子弟を教授した。門下に、高田早苗がいる。52歳。

墓は、経王寺墓地(西日暮里3-2-6)。本堂前より左に入り、井戸前の中央通路を奥に進み、「大澤家之墓」に突き当るので、右に行き右側4基目。正面「礪崎/小室 両家歴世之墓」。左側「小室樵山/礪崎◇三郎 建之」。右側「明治二十年八月十日」。「鷲峰院樵山日昇居士」。