串田孫三郎(くしだまごさぶろう) 天保4年〜明治40年4月20日(1833-1907)
渡辺銀行初代副頭取。長崎出身。はじめ渡辺治右衛門の「明治屋」店員。のち独立して「明孫商店」を興し、「明治屋」の支店として活躍。のち渡辺銀行初代副頭取を20年勤める。のち第百十三銀行支配人。75歳。「聴法院蓮誉漁舟居士」。
串田万蔵(くしだまんぞう) 慶応3年2月10日〜昭和14年9月5日(1867-1939)
三菱銀行会長。父、串田孫三郎(長男)。東京日本橋出身。19歳のとき、東京大学予備門を中途退学し、農商務省に入る。明治18年(1885)特許局長官高橋是清と渡米、銀行業務を体験する。明治23年(1890)ペンシルバニヤ大学政治経済学科卒業。同地の銀行で銀行業の経営を積み、明治27年(1894)帰国し、第百十九銀行(三菱銀行)に入行。大阪支店副支配人・本店銀行部副部長兼深川出張所主任などを経て累進し、大正7年(1918)三菱銀行取締役会長。東京手形交換所理事長。東京銀行集会所長。日本銀行参与。国際商工会議所日本委員会(ICC JAPAN)第3代会長(1929-1939)。その他の要職に就く。昭和10年(1935)三菱合資会社総理事。昭和12年(1937)改組により株式会社三菱社取締役相談役。正六位。夫人は、今村清之助の長女婦美子。子に随筆家で詩人の串田孫一(下記)がいる。73歳。「温恭院萬誉篤厚松塘居士」。
串田孫一(くしだまごいち) 大正4年〜平成17年7月8日(1915-2005)
哲学者・詩人・随筆家。東京芝明舟町出身。父、串田万蔵。東京帝国大学文学科哲学科を卒業。上智大学・国学院大學、東京外語大学教授も歴任。昭和40年(1965)大学教授を引退後も執筆活動を続けた。子供の時代より山歩きが好きで辻まこと氏との共著「山のABC」があるほか東京外語大学山岳部長も勤めた。また、山岳雑誌「アルプ」の編集にもたずさわった。挿絵も描く。著書:パンセの翻訳書もなども含め500冊以上といわれている。また、子に自由劇場の創立メンバーの一人、俳優で演出家の串田美和(くしだかずよし)がいる。89歳。「豊徳院孫誉文岳道居士」。
墓は、谷中霊園甲4号8側。駐在所横ぎんなん通り沿い。井上家墓裏。墓は、孫一の建立。正面「串田家之墓」。