今村清之助(いまむらせいのすけ)    嘉永2年〜明治35年9月26日(1849-1902)

    今村銀行創立。幼名、周吉。信州伊那郡出原村出身。父、吉右衛門(二男)。家は代々豪農であったが父の代に没落し困窮生活をしいられ、16歳で家を出て横浜に出たが連れ戻され、慶応3年(1867)再度名古屋を経て横浜に行き、露店・煙草屋・さざえの壺焼・洋酒店・屑屋など何度も商売に失敗したが、横浜で相場の世界で財をなした。角丸証券の創立者でもある。明治3年(1870)横浜に両替店を開き、のち堺町に太物綿類を商い、両替・株式仲介を兼ねた。明治11年(1878)東京株式取引所の設立に尽力。明治16年(1883)4月から明治19年(1886)1月まで陸奥宗光に同行し欧米を視察。明治20年(1887)田口卯吉らの発起の両毛鉄道の重役、以来九州鉄道・関西鉄道・参宮鉄道・山陽鉄道など全国の鉄道事業に参画し鉄道王と呼ばれた。明治21年(1888)今村銀行(後の第一銀行)創立。商界の奇傑といわれた人物。日清戦争から日露戦争にかけて展開された産業革命期に鉄道事業で巨万の富を得た。東京株式取引所相談役・山陽鉄道取締役・帝国ホテル取締役などを兼任。54歳。友人には、渋沢栄一福地源一郎、大倉喜八郎、安田善次郎、益田孝、根津嘉一郎、岩崎彌之助、本山彦一、馬越恭平、阿部彦太郎等の財界人がいた。渋沢栄一とは株の取引所を設立している。嗣子の今村繁三は、新田忠純の二女俊子と結婚。著書:「外遊漫録」。

墓は、谷中霊園 乙10号左8側。正面「今村清之助墓」。「清徳院仁誉義山信道居士」。