町田久成(まちだひさなり)    天保9年1月27日〜明治30年9月15日(1838-1897)

    初代帝国博物館館長。幼名、五郎太郎・三郎・民部。号、石谷。父、薩摩国石谷城主町田少輔久長(長男)。薩摩国日置郡石谷(鹿児島県日置郡松元町)出身。安政3年(1856)19歳で江戸に出て昌平黌や平田篤胤に学び、帰藩して小姓組番頭。大目付。慶応元年(1865)藩命により開成所学頭上野良太郎と変名しイギリスに留学。森有礼など留学生の世話をする。帰国後は明治政府に勤め、参与職外国事務局判事。長崎裁判所判事兼九州鎮撫使参議。外務大丞。明治4年(1871)文部大丞。明治5年(1872)オーストリア国博物館御用掛。明治7年(1874)米国博覧会事務局長。明治9年(1876)内務大丞。内務大書記官。内国博覧会審査官。明治18年(1885)元老院議官。大学大丞のときの大学南校勤務時代に部下に田中芳男がおり、その後2人は、博物局・内山下町(日比谷公園)の博物館時代に、東京国立博物館・国立科学博物館・東京都恩賜上野動物園の3館の基礎を作った。明治15年(1882)当時内務省博物局長の町田久成が、十数年にわたり展示物を収集し、現国立博物館の前身の博物館を開館した。しかし、わずか7ヵ月で博物館館長職を退き、明治23年(1890)園城寺法明院住職桜井敬徳阿闍梨によって仏門に入り、園城寺(三井寺)末光浄院の住職になった。精力的に仏教文化の保護に努めていたが、明治29年(1896)病にかかり上京、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養していたが、翌年9月病が悪化し60歳で没した。

墓は、津梁院墓地(上野桜木1)。津梁院山門を入らず、右側突き当たりが墓地。墓地に入り右側通路の左側。一周忌にあたる明治31年(1898)に建てられ、碑文は明治新政府の井上馨。久成の墓は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)山内の法明院にもある。「一乗比丘久成」。なお、国立博物館裏庭に「町田石谷君碑」は、本名町田久成のこと。碑には「人は皆、政治の高殿に上がろうと媚び諂っているが、それは私の望むところではない。私の望むところは兜率天(とそつてん:仏語の六欲天の第四天)である。」と刻まれている。

右は、「町田石谷君碑」。