牧野冨太郎(まきのとみたろう)    文久2年4月26日〜昭和32年1月18日(1862-1957)

    植物学者。日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者。高知県高岡郡佐川村出身。号、結網学人。明治4年(1871)伊藤蘭林塾に入門。明治12年(1879)佐川小学校教師。明治17年(1884)22歳の時に矢田部良吉に認められ、東京帝国大学理学部に研究生として所属することを許され、同学理科教室での研究を始める。明治26年(1893)同大学理科大学助手、明治45年(1912)同大学理学部講師、大正15年(1926)東京郊外の大泉に居を移る。昭和2年(1927)理学博士、昭和12年(1937)朝日文化賞受賞。昭和14年(1939)学歴を持たない富太郎の大学での評価は低く大学を辞任。独りで研究に没頭。昭和25年(1950)研究が評価され日本学士院会員となる。昭和26年(1951)第一回文化功労賞を受章。昭和28年(1953)東京都名誉都民となる。96歳。逝去と同時に従三位勲二等旭日重光章および文化勲章を受章。旧居跡は「牧野記念庭園(03-3922-2920)」となっている。練馬区東大泉6-34-4。入園無料。火曜日休園。駐車場なし。碑に「花在ればこそ吾も在り」。詩も詠み「富士の山遠く望めば姿かな近寄り見れば太き塊かな 牧野結網 齢九十」との詩もある。高知県立牧野植物園がある。著書:「植物図鑑」(1908)は改訂改題を重ね、現在は「原色牧野植物大図鑑」となっている。

墓は、天王寺墓地。さくら通り地蔵前通路奥(道標あり)。千人塚北東側(千人塚に向かって右横の道標のある通路を入り、右側)。非常にモダンな墓である。なお、多くの資料が、生誕日を4月24日としているが、墓表には4月26日とある。だれかが間違え、それを次々と参照するために起きる現象で、他にも見受けられる。正面「結網学人/牧野富太郎/TOMITARO MAKINO D-Sa/APRIL.26.1862 - JAN.18.1957」。「浄華院殿富嶽頴秀大居士」。