益田克徳(ますだかつのり)    嘉永3年〜明治36年4月6日(1850-1903)

    明治期の実業家。父、旧幕臣・男爵、益田鷹之助/益田鳳(ほう)(次男)。幼名、荘作。茶号、非黙。佐渡相川出身。安政元年(1854)父の箱館転勤に伴い、安政2年(1855)江戸の親戚に預けられるが、安政5年(1858)父の元に戻った。安政6年(1859)父に伴って再び江戸へ出た。慶応年間には海軍修業生となって、函館へ向かう榎本武揚の軍艦に乗ったが、途中難破して江戸へ戻されたという説と、名前を変えて土方歳三と箱館戦争に参加したという説がある。また、福沢諭吉と慶応義塾を作ったという説もあるが、箱館戦争と時期が重なるので、単に学んだか、経営に参加したかだろう。明治4年(1871)に山田顕義とともに欧米各国を視察し、のち司法省にて検事となる。明治7年(1874)前島密の指導で海上保険条例をつくり、自ら創設した東京海上保険会社の支配人となる。また、明治火災・明治生命・東京米穀取引所理事長・王子製紙・日本煉瓦・石川島造船所の重役などを歴任。また、明治10年頃政治結社「嚶鳴社」に加る。明治15年(1882)大隈重信の立憲改進党結党に参加。一方、明治13年ころから茶の湯を始め、明治の財界人の間に茶の湯ブームを引きおこした近代数寄者の祖とも言われる。兄に三井物産初代社長の益田孝(1848-1938)がいる。妹で教育者の永井繁子(ながい しげこ:1862-1928)は、岩倉使節団に随行し渡米している。三井物産の上田安三郎理事の妻は、益田克徳の妻の妹。

益田鳳(ますだほう)/益田天福(ますだてんぷく)     文政10年4月25日〜明治37年7月29日(1827-1904)

     佐渡奉行付目付役。前名、孝義。代々土着与力を以て徳川に仕える。佐渡奉行付目付役となり功績を認められ安政2年(1855)江戸勤務となる。明治5年(1872)ころ戸籍寮9等出仕。78歳。

墓は、谷中霊園 甲4号5側。正面「益田家之墓」。