松原新之助(まつばらしんのすけ) 嘉永6年〜大正5年2月14日(1853-1916)
水産講習所所長。号、瑜州。父、松原友益(長男)。島根県松江出身。明治4年(1871)東京医学校(東京大学医学部)に入学。明治6年(1873)F.M.ヒルゲンドルフの動物学の講義の通訳を務めながら動物学を学ぶ。明治12年(1879)内務省御用掛となりドイツに渡り、法律調査のため、ベルリン滞在中の村田保(のちの第2代水産伝習所長)と会い、日本の水産業発展のため努力することを誓い合った有名な話がある。最後に明治14年(1881)ベルリン水産博覧会を視察。帰国して水産学に転じる。農務局事務取扱・東京大学助教授・駒場農学校教授。明治15年(1882)大日本水産会創立に参画し監事。明治16年(1883)第1回水産博覧会審査部長。明治18年(1885)水産練習所講師。農商務省が明治 21年から3年かけて行った全国的な水産の予備調査に参画。松原新之助は農商務省技師として第1巻から第3巻(部分)の報告書を担当し、 沖縄のジュゴンについても報告している。明治22年(1889)水産伝習所創立・教師。明治24年(1891)新潟県の河川を調査し、魚種の減耗策として、密漁の禁止・育てやすい欧米の良種 を移入し、人工孵化を進めることなどを進言している。また、阿賀川(阿賀野川)において、鉱山廃水が魚類に悪影響を与えていることも既に指摘した。明治30年(1897)水産局幹事。明治36年(1903)水産講習所と改称し、初代所長となる。明治44年(1911)農商務技師(勅任官)となり、退職。宮内省御用掛となる。従四位勲三等。64歳。
墓は、谷中霊園 乙10号20側。正面「従四位勲三等松原新之助之墓」。墓誌あるも、その中には新之助の記載なし。