村田 保(むらたたもつ) 天保13年〜大正14年1月7日(1842-1925)・・・6日説あり
官僚・政治家・水産家。号、水産翁。父、幕臣徒目付浅原耕司(長男)。10歳で村田鎌六の養嗣子となる。明治元年(1868)鎮守府兼昌平校に出仕。明治2年(1869)昌平校教授試補。刑法官となり新津取調掛兼大学少助教。明治3年(1870)刑部省大録。松原新之助と共に水産伝習所設立に参画、のち第2代所長。明治4年(1971)イギリスを視察。明治5年(1972)太政官少書記官。のち、外務権大書記官。明治13年(1880)ドイツを視察。明治15年(1882)太政官兼内務大書記官。大日本水産会創設副総裁となる。小松宮より「水産翁」の称号を賜う。明治23年(1890)高等法院予備裁判官。勅選貴族院議員。大正3年(1914)貴族院にて海軍収賄問題を挙げ山本内閣弾劾演説をし、自らも職を辞す。その間、元老院議官・高等法院裁判官・錦鶏間祗候など。著書:「治罪法註釈」、「ドイツ法律書」、「英国法家必携」、「英国法院章程」、「英国列律摘要」、「刑法注釈」など。正二等勲一等瑞章。84歳。
※ 山本内閣弾劾演説:海軍の大疑獄シーメンス事件の際、貴族院本会議の席上で、怒り心頭に達し、首相山本権兵衛伯を、欲しいままに面罵してそのまま直ちに貴族院議員を辞す。
墓は、谷中霊園 乙5号1側。正面「水産翁村田保之墓」。墓碑に没年日なし。