待乳山(まつちやま)・10代/両国梶之助・2代    明治40年年3月2日〜昭和34年11月23日(1907-1959)

    関取。本名、太田勇雄。長崎県出身。昭和2年(1927)本名もまま初土俵を踏み、途中で瓊ノ浦(たまのうら)と改名。昭和7年(1932)1月の春秋園事件の大量脱退があり東幕下3枚目であったが、幕内に抜擢された。昭和13年(1938)最高位、関脇。双葉山を破ったこともある。昭和17年(1942)5月十両に落ちることが確実のなり引退。したがって、十両在位ゼロという珍記録をつくった。幕内在位、24場所。幕内通算、135勝155敗6休。引退後、10代待乳山を襲名。

墓は、谷中霊園 乙10号7側。正面「太田家之墓」。師匠の初代両国梶之助墓のすぐ隣りにある。「弘願院釈勇誉純孝居士」。