松平定法(まつだいらさだのり)/久松定法 天保5年12月29日〜明治34年9月18日(1834-1901)
伊予今治藩第10代藩主(最後)。父、第8代藩主松平定芝(さだしげ:三男)。天保8年(1837年)に父が死去時は幼少だったために定芝の養子の松平勝道(かつみち:1813-1866)が後を継ぎ、定法は後に勝道の養子となり、文久2年(1862年)11月勝道の隠居にともない藩主を継承。家老久松長世補佐のもとに幕末多事の藩政に当った。同3年就封の土産として藩士一同に西洋歩銃一挺宛を渡し、洋式訓練を施し、その子弟に洋式兵学を学ばせ、海岸砲台を増設するなど国防に留意した。再度にわたる長州征伐に出兵。明治元年(1968)朝命により久松に復姓し、奥州征討の援兵二小隊を派遣した。同年末及び翌2年には藩制を改革、6月版籍奉還により今治藩知事となり、明治4年7月廃藩により退官、のち隠居した。68歳。後継は、長男久松定陽が幼かったため、養子の久松定弘となる。従三位。
伊予今治藩歴代藩主は下記のとおり。初代・松平定房(さだふさ:1604-1676)。2代・松平定時(さだとき:1635-1676)。3代・松平定陳(さだのぶ:1667-1702)。4代・松平定基(さだもと:1686-1759)。5代・久松定郷/松平定郷(さださと:1702-1763)。6代・久松定休/松平定休(さだやす:1752-1780)。7代・久松定剛/松平定剛(さだよし:1771-1843)。8代・久松定芝/松平定芝(さだしげ:1791-1837)。9代・久松勝道/松平勝道(かつみち:1813-1866)。
久松松平家は、菅原道真を祖とする。室町時代に菅原道定が尾張国に移り、久松姓を名乗ったのにはじまる。定房の父定勝の母である伝通院於大の方は、徳川家康の母。家康が3歳のときに久松俊勝と政略再婚し定勝の母となった。定勝は家康と異父兄弟のため松平家を名乗った。久松家は2代・定時の三男定昌を祖とする。
久松定弘(ひさまつさだひろ) 安政4年〜大正2年7月7日(1857-1913)
松平禄子 ?〜明治35年12月24日(?-1902)
伊予今治第11代藩主。幼名、弘太郎。父、大河内正晴(長男)。明治4年(1871)10代藩主の養子となり、のち11代を継承。島田篁村に漢学を学ぶ。のち、駿河台学舎で英語を学ぶ。明治8年(1875)ドイツに留学し哲学を学ぶ。明治12年(1879)帰国して、西洋哲学私塾を開設。明治16年(1883)内務省御用掛。警官訓練所幹事・権少書記官・内務省参事官・第一高等学校講師のち教授・外務省公使館書記官等を歴任。明治23年(1890)貴族院議員。翌年辞任するも明治30年(1897)再度貴族院議員。東亜火災保険取締役会長。子爵に叙任。正三位。室松平禄子は、美濃郡上藩第10代藩主青山幸哉(ゆきしげ)の娘。
久松定陽(ひさまつさだあき) 明治10年〜明治41年8月7日(1877-1908)
久松定弘の弟。東京大学政治科卒業間際に病没。妻、東伏見宮家令小野保知の娘采子。子に、久松威子、久松寿子がいる。正五位。31歳。
久松 喬(ひさまつたかし) ?〜昭和12年3月28日(?-1937)
子爵・今治久松家12代当主。父、久松定弘(長男)。明治39年(1906)6月26日陸軍歩兵中尉。のち憲兵科に転じ大尉。東京憲兵隊付朝鮮駐在憲兵分隊長。朝鮮総督府警視。大正2年(1913)襲爵。正四位。
久松定秋(まつひささだあき) 明治38年〜昭和59年3月5日(1905-1984)
子爵・今治久松家13代当主。父、久松定陽(?-1908)(長男)。養父、久松喬。昭和12年(1937)襲爵。東京合同運送勤務。長男、久松定隆。従四位。
※ 久松家14代(現当主)は、久松定隆で、河内桃子の夫。
墓は、谷中霊園 乙2号1側。正面「久松家之墓」。