松平忠明(まつだいらただあきら)・初代    天正11年〜寛永21年3月25日(1583-1644)

    三河作手藩主→伊勢亀山藩主→摂津大坂藩主→大和郡山藩主→播磨姫路藩主(初代)。
父、奥平信昌(4男)。母、徳川家康の子亀姫(加納殿)。天正16年(1588)家康の養子となり松平姓となり、奥平松平家初代となる。文禄元年(1592)兄の松平家治の死去に伴い、家督を相続。上野長根に7000石を賜う。慶長4年(1599)忠明と改名。関が原の戦いでは、父と共に徳川方として参加。慶長7年(1602)三河作手藩主となり、三河作手17000石・伊勢亀山5万石を賜る。慶長15年(1610)伊勢亀山藩5万石の藩主として移封。大坂冬の陣では、病没した実兄松平忠政の兵も加えて活躍。大坂夏の陣では、道明寺の戦いや誉田の戦いに参戦。戦後、10万石で大坂城主10万石。元和5年(1619)大和郡山藩12万石へ加増移封。寛永16年(1639)播磨姫路藩18万石に加増移封。晩年は、江戸幕府の宿老として幕政に務めた。62歳。墓所は、和歌山県高野山中性院。「天祥院殿心玄鉄大居士」。
※ 大坂に陣で中断していた運河を完成させ、「道頓堀」と名付けた。

松平忠弘(まつだいらただひろ)・2代     寛永8年11月8日〜元禄13年5月16日(1631-1700)

     奥平松平家2代当主。姫路藩主(2代)→山形藩主→宇都宮藩主→白河藩主→山形藩主(初代)。
父、松平忠明(長男)。母、妙応院(三好氏)。寛永21年(1644)父の死去に伴い、12歳で家督を相続、2代姫路藩主となる。4年後年少と家中不祥事を理由に山形に転封となる。のち、宇都宮に転封となり、さらに白河に移封となる。白河騒動が起こり、責任を取り隠居。家督は、忠弘の子清照が病弱のため清照の長男斉宮(松平忠雅)が養嗣子となり継いだ。70歳。室は、越中守松平忠利の娘藤姫
没年月に複数の異説資料があるが、墓誌を採用した。墓所は、和歌山県高野山中性院。「枴伽院殿前四品拾遺端翁道厳大居士」。

松平忠雅(まつだいらただまさ)・3代     天和3年9月24日〜延享3年6月20日(1683-1746)

     奥平松平家3代当主。出羽山形藩主(2代)・備後福山藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主。幼名、斉宮。通称、左膳。父、松平清照(長男)。母、妙惠院。白川に生まれる。父清照が病弱だったため祖父忠弘の養嗣子となる。元禄4年(1691)9歳のとき将軍徳川綱吉に拝謁。元禄5年(1692)家督を継ぐ。元禄9年(1696)従五位下、下総守に叙任。元禄13年(1700)山県を改め備後福山城主となる。宝永元年(1704)従四位下。宝永7年(1710)伊勢桑名藩移封。松平家初代藩主となる。のち、侍従。のち江戸に戻り少将に任ぜられる。室は、毛利綱広の5女。日光参代、鳥越三味線堀西に1万920坪の下屋敷を持つ。馬場先門に6230坪の守屋敷を持つ。64歳。墓所は、台東区谷中天眼寺。「大梁院殿仁嶽紹裕大居士」。

松平忠刻(まつだいらただとき)・4代     享保3年9月11日〜天明2年12月24日(1718-1783)

     奥平松平家4代当主。伊勢桑名藩主(2代)。初名、清種・岩吉。通称、奥平主膳清種。父、松平忠雅(3男)。母、永林院関口氏。嫡子の6男松平忠張死去に伴い、世子となる。元文3年(1738)将軍徳川吉宗に拝謁。従4位下信濃守に叙任。延享3年(1746)父忠雅死去に伴い相続。奥平松平家4代当主・2代藩主となる。下総守。明和4年(1767)侍従となり、将軍若君の養育係「御使」。城下の大火・洪水に遭い多難続きで明和5年(1768)に家臣から半知借上げをする。明和8年(1771)病気のため致仕し、家督を二男松平忠啓に譲り信濃守に戻る。墓所は、台東区谷中天眼寺。「龍光院殿天山宗見大居士」。
※ 没年の日に27日の資料があるが、墓誌の24日を採用した。

松平忠啓(まつだいらただひら)・5代     延享3年12月15日〜天明6年12月10日(1747-1787)

     奥平松平家5代当主。伊勢桑名藩主(3代)。幼名、岩次郎のち民部・兵庫。父、松平忠刻(次男)。母、純性院市原氏。宝暦13年(1763)長男忠泰の死により世子となり、将軍徳川家治に拝謁。従五位下駿河守に叙任。明和8年(1771)父の隠居に伴い相続。第3代藩主となる。下総守に改める。安永元年(1772)従四位下。安永5年(1776)侍従。度重なる城下の火災や大洪水、天明4年(1784)の天明の大飢饉など多難となり、百姓一揆も起こる苦難な状況となった。後継は、養子の松平功。室は、長州藩8代藩主毛利重就の娘澄(蘭惠院)。台東区谷中天眼寺。「崇厳院殿功運道惇大居士」。

松平忠功(まつだいらただかつ)・6代     宝暦6年5月21日〜文政13年7月29日(1756-1830)

     奥平松平家6代当主。伊勢桑名藩主(4代)。幼名、頼久のち職之丞。父、紀州藩7代藩主徳川宗将(7男)。母、伏見宮貞建親王の養女富宮(浄眼院)。天明3年(1783)忠功の長女久仁姫の婿養子となる。天明7年(1878)遺領を継ぎ、将軍徳川家斉に拝謁。従五位下下総守に叙任。寛政2年(1790)従四位下。寛政5年(1793)病気を理由に隠居し、家督を実弟で養子の松平忠和に譲り、大外記に改める。75歳。墓所は、台東区谷中天眼寺。「大乗院殿融明慈証大居士」。
※ 没年月日に8月6日の資料があるが、墓誌の7月29日を採用した。

松平忠和(まつだいらただとも)・7代     宝暦9年8月27日〜享和2年4月22日(1759-1802)

     奥平松平家7代当主。伊勢桑名藩主(5代)。幼名、頼徳のち唯之丞。号、澹寧斎・無礙居士・梅花堂主人。父、紀州藩7代藩主徳川宗将(9男)。母、植田さよ(保福院)。寛政5年(1793)既に婿養子となっていた兄の忠功に子がなく、兄の養子となった。同年将軍徳川家斉に拝謁。襲封し桑名城に住む。35歳で従五位下下総守に叙任。寛政6年(1794)従四位下に叙任。算学を古川氏清に学び、専門の域に達する。また、理学・蘭学を修め、物心和尚から禅を学ぶ。正室なく、側室に3男1女があったが皆夭折する。祖父忠啓の末娘周姫を養女とし松平忠翼を婿養子とする。44歳。著書:「遊心公遺文・惠礼幾天留(エレキテル)記」、「空華集」、「澹寧斎詩集」。墓所は、台東区谷中天眼寺。「遊心院殿無礙了空大居士」。
※ 没年月日に5月10日の資料があるが、墓誌の4月22日を採用した。

松平忠翼(まつだいらただすけ)・8代     安永9年〜文政4年3月20日(1780-1821)

    奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩主(6代)。名、鳥之助。父、井伊直朗(3男)。母、吉田氏。寛政6年(1794)松平忠和の養女(松平忠啓の末娘周姫)の婿養子。寛政10年(1798)将軍徳川家斉に拝謁。従五位下織部正に叙任。のち、家督を相続。溜間詰となり侍従。42歳。墓所は、台東区谷中天眼寺。「文明院殿厳恭道健大居士」。

松平忠堯(まつだいらただたか)・9代     享和元年〜元治元年8月14日(1801-1864)

     奥平松平家9代当主。伊勢桑名藩主(7代)。武蔵忍藩主(初代)。父、松平忠翼(長男)。文政6年(1823)武蔵忍藩に転封。父、死亡により21歳で家督を相続。文政6年(1823)113年間治めた桑名より武州忍藩に移封となる。64歳。室幸宮は、伏見宮貞敬親王の3女。文政9年(1826)京都伏見町から輿入れし江戸上屋敷で婚礼をあげる。墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。「大休院殿仙翁道閃大居士」。

松平忠彦(まつだいらたださと)・10代    文化2年9月9日〜天保12年3月27日(1805-1841)

     奥平松平家10代当主。武蔵忍藩主(2代)。幼名、要三郎。父、松平忠翼(3男)。兄の忠堯の養嗣子。式部大輔・侍従。養父の病気隠居により家督を相続。下総守。溜間詰衆。文を好み武をたしなみ、他人を意見を良く聞く。「影葵紋」の使用を許される。子なし。藩主在任は3年に満たなかった。37歳。墓所は、台東区谷中天眼寺。「惇宗院殿道嶽功顕大居士」。
※ 没年月に4月27日の資料があるが、墓誌の3月27日を採用した。

松平忠国(まつだいらただくに)・11代     文化12年10月19日〜明治元年7月10日(1815-1868)

     奥平松平家11代当主。武蔵忍藩主(3代)。幼名、匡丸のち匡一郎・忠国。父、8代松平忠翼(5男)。母、平野氏(妙善院)。10代当主の実弟。黒船来航時の房総沿岸警備、品川第3台場警備を担当。「明君少将」と呼ばれた。戊辰戦争では新政府に恭順。54歳。墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。「泰嶺院殿忠峰道秀大居士」。

松平忠誠(まつだいらただざね)・12代     天保11年1月5日〜明治2年6月5日(1840-1869)

     奥平松平家12代当主。武蔵忍藩主(4代)。幼名、八五郎。父、下野国烏山藩主大久保忠保の弟の大久保忠声(長男)。後継予定の松平忠毅の廃嫡により養子となる。文久3年(1863)家督を譲りうけ藩主となる。天狗党鎮圧・京都警護などに活躍。房総沿岸警備。下総守。四品に叙す。溜間詰。従四位侍従。少将。鳥羽伏見の戦いの後、隠居の父忠国が恭順にまとめ、新政府軍に降伏。30歳。正室は、太田資始の娘。墓所は、埼玉県行田市の天祥寺。「霊源院殿潤渓了澤大居士」。

松平忠敬(まつだいらただのり)・13代     安政2年7月14日〜大正8年11月15日(1855-1919)

     奥平松平家13代当主。武蔵忍藩主(5代)。幼名、篤之助。父、12代米沢藩主上杉斉憲(6男)。母、松平頼恕の娘。明治2年(1869)松平忠誠の養嗣子となり、忠誠の死去により相続。版籍奉還で忍藩知事。封地は、武蔵・伊勢・播磨の3カ国、218カ村。実収14万1725石。2回の藩政改革を実施。養豚奨励政策を実施。廃藩置県で免官。東京に移転。明治5年(1872)イギリスに留学。明治17年(1884)滋賀県御用掛・子爵。旧藩士の不正事件で地位を追われ米沢に帰り中学校教師を勤めた。明治28年(1895)東京に戻る。正3位。夫人は、一品伏見宮邦家親王第12王女節宮貴子。65歳。墓所は、台東区谷中天眼寺。「忠恭院殿敬巌柏堂大居士」。

松平忠寿(まつだいらただひさ)・14代     明治15年〜昭和57年7月7日(1882-1982)

     奥平松平家14代当主。父、松平忠敬(長男)。大正7年(1918)襲封。海軍兵学校卒業。日露戦争に出征。昭和3年(1928)予備役、海軍大学に入学。横須賀鎮守府海軍軍需部第1課長・「榛名」副長。また、大礼使としてオランダへ行く。海軍大佐。貴族院議員。従三位勲二等瑞宝章。元華族の最高令者であった。太平洋戦争で戦災に遭った目黒の自宅300坪を松平農園とし、70歳で東京農業大学聴講生となり、野菜作りに励む。尚友会倶楽部理事長。100歳。先妻は、男爵奥田義人の娘咲子。後妻は、藤光曜の妹都和子。墓は、天眼寺墓地。「天寿院殿徳翁玄忠大居士」。

松平忠晃(まつだいらただあきら)・15代     大正3年?〜平成15年9月1日(1914?-2003)

     奥平松平家15代当主。日本銀行勤務。89歳。墓は、天眼寺墓地。

墓誌は下記のとおり。戒名は省略した。太字が歴代藩主。

正保元年3月25日初代忠明寿62歳高野山中性院
慶長10年5月15日初代忠明室織田上野介信?女??
万治3年2月12日初代忠明后室出藩?子吉政女
元禄13年5月16日2代忠弘寿70歳高野山中性院
元禄11年6月23日2代忠弘室細川越中守忠利女藤姫寿17歳・・・「天眼寺殿」参照
延享3年6月20日3代忠雅寿64歳
元文2年3月25日3代忠雅松平大膳太夫綱広寿女58歳
天明2年12月24日4代忠刻寿66歳
享和元年7月16日4代忠刻室酒井左衛門?忠寄女寿76歳
天明6年12月10日5代忠啓寿41歳
安永8年6月29日5代忠啓室松平大膳太夫重就女寿23歳
文政13年7月29日6代忠功寿75歳
寛政3年3月13日6代忠功室5代忠啓嫡女久仁姫寿27歳
享和2年4月22日7代忠和寿44歳
文政4年3月20日8代忠翼寿42歳
文政3年正月10日8代忠翼室5代忠啓女国姫寿36歳
元治元年8月14日9代忠堯寿64歳天祥寺
天保12年6月27日9代忠堯??宮?敬親????7歳
天保12年3月27日10代忠彦寿37歳
万延元年3月27日10代忠彦室松平因幡平斎女?姫寿48歳
明治元年7月10日11代忠国寿54歳天祥寺
慶応2年5月10日11代忠国室奥平大膳太夫昌?女寿39歳
明治2年6月5日12代忠誠寿30歳天祥寺
大正8年11月15日13代忠敬寿65歳
大正8年4月8日13代忠敬室伏見宮邦家親王王女節宮?63歳
昭和57年7月7日14代忠寿 100歳
昭和14年9月13日14代忠寿室男爵奥田義人女咲子寿48歳
昭和22年10月24日14代忠寿室藤光曜妹都和子寿41歳
平成15年9月1日15代忠晃寿89歳
平成11年6月7日15代忠晃室義83歳