松本_太郎(まつもとけいたろう)/松本_    嘉永3年〜明治12年4月16日(1850-1879)

    明治時代初期の化学者。父、松本良順(長男)。佐藤泰然の孫。江戸出身。12歳で父に従い長崎に行き、オランダ人ボードインにオランダ語・洋算・医学などを学ぶ。ハラマタからドイツ語・化学を学ぶ。14歳のとき江戸に帰り、開成校ドイツ語助教。15歳で再び長崎に行き、化学者のハラマタから化学を学ぶ。慶応3年(1867) ボードウィンがオランダに帰国の折に、開成校は緒方洪庵の次男の緒方惟準(おがたこれよし)と松本_太郎を同伴し、ユトレヒト大学に入学させた。維新で帰国させられ、明治元年(1868)「大坂舎密局」を開校したとき助教授となり、オランダからハラタマ(Gratama)を教頭とし招聘、22歳の三崎嘯輔と19歳の松本_太郎を通訳として講義し、実験もした。明治4年(1871)21歳でまたドイツに留学し、ベルリン大学でホフマン氏に近代化学を学び、有機化学の権威となる。明治8年(1875)日本人で初めてドイツの化学界の機関誌に論文を発表。留学7年にして病気となり帰国してすぐに没する。29歳。

※ 弟松本暢は、陸軍軍医。母の百か日忌に捧げようと馬入川に魚を獲りに入り、過って溺死する。弟松本本松は、正五位男爵医学博士となる。

墓は、甲新16号26側。松本泰然墓域内に同居。墓碑は「松本_」。正三位源慶永の歌が記されている。松本良順(松本順ともいう)の墓は神奈川県妙大寺。