三木武吉(みきたけきち/ぶきち) 明治17年8月15日〜昭和31年7月4日(1884-1956)
自由民主党の55年体制を作った超大物政治家。正三位勲一等。高松市出身。明治37年(1904)東京専門学校 (早稲田大学)邦語法律科卒業。明治37年(1904)判検事登用試験合格、弁護士を開業。東京地方裁判所司法官試補。明治40年(1907)以来代議士・牛込区会議員・東京市会議員。大正6年(1917)憲政会から衆議院議員となり、民正党の中堅として活躍する。「ダルマは9年」のヤジにより「野次将軍」と呼ばれる。大正11年(1922)東京市会議員。大正13年(1924)憲政会幹事長。加藤内閣の浜口蔵相のもとで大蔵参与官。大正15年(1926)市政刷新同盟をつくりわが物とする。昭和3年(1928)京成電車事件に連座し、一時政界を退く。のち立憲民政党より衆議院議員。昭和13年(1938)政界を離れる。昭和14年(1939)報知新聞社長。これを正力松太郎に譲り、翼賛選挙に当選。戦後、鳩山一郎と共に日本自由党を結党し、総務会長となる。以来党務に専念し、自ら大臣などの職につかず、プロデューサーとして実質的な決定権を握った。昭和21年(1946)総選挙で第一党となるが、鳩山首班での組閣直前に鳩山は公職追放となり吉田茂を総裁に迎え、首班指名に臨むことになる。もめにもめた後、結局、昭和21年(1946)第1次吉田茂内閣成立となる。その後、三木も公職追放となり、鳩山内閣成立に尽力する。吉田茂の「バカヤロー発言」などで、各党派入り乱れての混乱の後、第5次吉田内閣にかわり吉田ワンマン内閣を打倒し昭和29年(1954)鳩山一郎内閣を成立させた。しかし、鳩山政権は少数与党だったため、自由党との合同を狙うが、すんなりとはいかず、昭和35年(1955)「総裁なし、鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦の代行委員で」行くことになった。これが、自由民主党の成立、つまり「55年体制」成立である。高松市栗林公園には銅像がある。
墓は、谷中霊園乙10号11側。正面「淡如雪 三木生」(淡きこと雪のごとし)。武吉の名は無いが、墓碑裏に没年と官位がある。「昭和三十一年七月四日逝去/正三位に叙し勲一等旭日大綬章を授◇せらる」。