三輪徳寛(みわとくひろ)    安政6年8月13日〜昭和8年2月19日(1859-1933)

    医者で薬学の権威。父、医家三輪徳太郎(二男)。愛知県出身。明治4年(1871)名古屋県は洋医学校を発足したが、このとき三輪徳寛は13歳で入学した。明治7年(1874)上京し壬申義塾・外国語学校に学ぶ。明治10年(1877)東京帝国大学予備門に入る。明治19年(1886)3月東京大学医科大学入学。明治22年(1889)千葉市第一高等学校医学具教諭。明治30年(1897)ドイツ留学し、2年間外科学を専攻。明治32年(1898)帰国。千葉医学専門学校教授。明治34年(1901)医学博士。明治35年(1902)兄三輪重秀と分かれて一家を創立。大正3年(1914)千葉医科大学学長。大正4年(1915)日本外科学会長。大正12年(1923)千葉大学初代学長。大正13年(1924)名誉教授。従三位勲二等。75歳。妻の栄は、医家高松凌雲の娘。著書:明治42年から6年間かけ「三輪医学叢書」15編を刊行、「三輪外科診断療法」。

墓は、谷中霊園乙2号12側。南端。正面「従三位勲二等三輪徳寛墓」。「真如院松風寿徳日信大居士」。