高松凌雲(たかまつりょううん) 天保7年12月25日〜大正5年10月12日(1836-1916)
幕臣奥医師・救護事業の先駆者。通称、権平・荘三郎。号、凌雲。父、庄屋高松虎之介直道(三男)。筑後国古飯村(福岡県小郡市)出身。農業の傍ら素読・習字を学ぶ。18歳で庄屋見習い。20歳で久留米藩河原家の養子となるが、河原家の乱れを見て安政6年(1859)江戸に出て、柴田方庵に師事、さらに石川桜所に蘭学を学ぶ。のち、文久元年(1861)大坂の緒方洪庵に師事。翌年横浜でヘボンの英語学校に入る。慶応元年(1865)一橋家表医師、さらに、慶喜が将軍に就くと大坂城の奥詰医師となる。慶応3年(1867)徳川昭武一行と渡欧し第2回パリ万国博覧会に参加し赤十字を知る。留学生としてパリに留まるも大政奉還により明治元年(1868)5月召還となる。鳥羽伏見の戦いで敗戦した後は、榎本武揚、新選組の土方歳三、永井尚志らとともに函館五稜郭で新政府軍と戦うが、のち野戦病院(箱館病院)を建て、敵味方の区別無く戦傷者などの収容治療をはかった。明治2年(1869)10月徳島藩に預けられ、明治3年(1870)赦されて11月東京浅草で開業。明治10年(1877)11月上野桜木町に「鶯渓医院」を開き、兵部省の招きにも応じず。凌雲は同志と明治12年(1879)「同愛社」を作り、東京で貧民のための施療事業を興し、社会事業に専念した。「同愛社」は90万人余を救済したといわれている。本邦博愛事業の初めとなった。東京医学会創立。東京府地方衛生会委員。浅草区医務局長。民間救護事業の祖。上野鶯谷の自宅で没する。正三位。81歳。兄に会津衝鉾隊隊長の古屋作左衛門がいる。娘の栄は、三輪徳寛の妻。
※ 「同愛社」は、この後の西南戦争時に「博愛社」が創られ後に改名し「日本赤十字社」となる。詳細な物語は小説「夜明けの雷鳴」(吉村照著・文芸春秋)になっている。また、「五稜郭決戦」という菅原文太・加藤剛・大原麗子・大竹しのぶなどの出演する芝居になっている。高松凌雲役は、尾上菊五郎。
墓は、谷中霊園乙5号2側。写真は、正面、向かって右側、裏、左側。正面「高松凌雲/配 久子 墓」。