石川桜所(いしかわおうしょ)/石川良信 文政8年〜明治15年2月20日(1826-1882)
江戸末期から明治前期のオランダ医・陸軍軍医監。名、良信。号、陸舟庵。従五位。奥州登米郡桜場村籠壇(宮城県上沼籠壇)出身。14歳の頃江戸に出て西洋医学を伊東玄朴に学ぶ。長崎でオランダ人から直接蘭学を学び、江戸に戻り仙台藩の医員となり治療にあたる。38歳のとき将軍徳川慶喜の侍医となり、医官として法眼の位と香雲院の称号を許される。慶応2年(1866)孝明天皇暗殺事件のときは、たまたま孝明天皇の治療に呼ばれて出向いた石川桜所が毒殺したとの噂に巻き込まれたこともあった。戊辰の役では、慶喜に付添い、大阪から江戸、寛永寺から水戸と行動を共にした。しばらく後、辞して仙台松島に住み自適の暮らしをするが、明治4年(1871)兵部省軍医寮に入り、陸軍医となり軍医制度の制定に尽力。累進して軍医監となるが病気になり職を辞す。詩文も良くした。駿河台に没する。58歳。門弟に高松凌雲、山県有朋(1838-1922)、千葉卓三郎(1852-1883)らがいる。著書:「内科簡明」、「養生訓」。また詩文をよくしその遺稿「香雲閣誌鈔」がある。
墓は、谷中霊園乙5号3側。正面「石川家之墓」。