永井尚志(ながいなおゆき/なおむね)    文化13年11月3日〜明治24年7月1日(1816-1891)

    江戸時代後期の幕府官僚。政治家。通称、岩之丞。号、介堂。父、三河奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の庶子。25歳のとき旗本永井能登守尚徳の養子となる。嘉永元年(1848)昌平校甲科及第。嘉永6年(1853)徒士頭から目付となる。安政元年(1854)長崎勤務となり、老中阿部正弘に抜擢され安政2年(1855)長崎海軍伝習所の所長となる。同4年(1857)3月伝修修業生を率い海路江戸に帰り創設された軍艦操練所の総督。12月勘定奉行。後、新設の外国奉行となり露・英・仏との通商条約に調印。安政6年(1859)2月軍艦奉行を歴任するが安政の大獄で処罰され隠居。文久2年(1862)京都町奉行として復職し元治元年(1864)大目付。第一次二次長州征伐に参加。慶応元年(1865)5月長州処分で老中と意見が合わず辞職するも10月に復職。慶応3年(1868)若年寄。徳川慶喜を補佐し大政奉還の上表文を起草する。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れ、新政府に恭順した慶喜に免職され、一時函館に逃れた元新選組の土方歳三らと新政府軍と戦ったが、榎本武揚と共に新政府に降伏し東京で投獄。明治5年(1872)許されて明治政府に出仕し、開拓使御用掛。明治8年(1875)元老院書記官などに就任。明治9年(1876)辞職。76歳。

墓は、本行寺(西日暮里。JR日暮里駅谷中口すぐ)。本堂左通路突き当たり。正面「清音院殿妙琴日奏大姉/崇文院殿介堂月影大居士/直良院殿妙彰日堂大姉」。「清音院・・・」は正室(?-1843)。「直良院・・・」は継室(?-1893)。東京都史跡。