阿部正弘(あべまさひろ)・7代藩主    文政2年〜安政4年6月17日(1819-1857)

    備後福山藩8代藩主。老中。伊勢守。江戸出身。父、福山藩主阿部正精(六男)。幼名、剛蔵のち主計。通称、四郎五郎。柴山敬蔵・門田堯佐らに師事。天保7年(1836)兄阿部正寧の養子として7代藩主となる。天保9年(1838)奏者番。天保11年(1840)寺社奉行をへて天保14年(1843)25歳で老中となる。朝廷に外国船来航状況を報告、また諸藩に意見を求めるなど、これまでの幕府独裁の慣例を改めた。弘化2年(1845)水野忠邦に替わり老中首座となる。また、開国方針を採り安政元年(1854)日米和親条約を締結した。さらに講武所・海軍伝習所・洋学所を開設した。安政2年(1855)海軍伝習所の所長に永井尚志をあてた。将軍家定の後継問題では一橋慶喜を推したが、井伊直弼にはばまれた。なお、外交での意見収集のため勝海舟、川路聖謨などの人材を登用した。薩摩島津斉彬の養女篤姫を徳川家定の正室として迎えることに尽力(NHKの大河ドラマ「篤姫」では草刈正雄が演じた)。黒船渡来後の変化に応じ、永井尚志・岩瀬忠震などの若手の英才を登用した。

墓は、寛永寺谷中墓地。渋沢栄一墓の北側、石塀に囲まれた中に門を開けて入り左側列最奥。墓碑前に大正天皇が来られたという碑が建つ。「良徳院殿高誉信義節道大居士」。昔は、石塀の中がすべて安部氏の区域だったが、現在は分譲され一般の墓がある。なお、第10代当主阿部正桓(まさたけ)墓は、甲9号9側にある。