長沢別天(ながさわべってん)/長沢説 慶応4年5月1日〜明治32年11月22日(1868-1899)
文学評論家・ジャーナリスト。本名、説(せつ)。号、半眼子・坂東太郎・別天楼・渺茫居士(びょうぼうこじ)。土浦藩重臣長沢岩五郎(長男)。常陸国出身。功玉社・立教学校に学び、江東義塾の教員となる。「学」・「書生」・「筆之力」の同人。「江湖新聞」記者を経て明治23年(1890)国粋政治文化団体の「政教社」に入る。三宅雪嶺のもと「日本人」、「亜細亜」も編集をする。明治24年(1891)アメリカ留学。明治26年(1893)帰国し、鎌倉で保養、アメリカ論「ヤンキー」を著す。ミルトンやバイロンの英文学の紹介に尽力し、明治27年(1894)社会主義に共鳴して「政教社」の雑誌「日本人」に「社会主義一斑」という研究論文を連載し、マルクス紹介号で発禁処分を受けた。「山陽新報」主筆を経て、明治31年(1898)「東京朝日新聞」に入社、政治主任となる。内藤湖南・田岡嶺雲と交流あり。エドガー アラン ポーの詩を初めて紹介。肺結核で没する。32歳。著書:「盲詩人」。
墓は、谷中霊園 乙12号7側。奥、岸田吟香の墓地の右隣。「長松院文淵別天居士」。