岸田吟香(きしだぎんこう)    天保4年4月28日〜明治38年6月7日(1833-1905)・・・生誕日8日説あり

    日本最初の邦字新聞を発行。幼名・通称、大郎・国華のち銀次・銀次郎ほか多数。父、農業兼酒造業の岸田秀次郎徳義(長男)。美作久米郡垪和村(岡山県久米郡旭町栃原)出身。津山で儒学者昌谷精渓に師事。のち、17歳で江戸に出て藤森弘庵(天山)に就いて漢学を学ぶが、弘庵が安政の大獄で逮捕されると上州伊香保に逃れるなど潜伏生活をし、元治元年(1864)箕作秋坪の紹介で横浜のヘボンに眼の治療を受けたことから、ヘボンの「和英語林集成」(吟香の命名といわれる)編纂に携わる。また、ジョセフ ヒコから英語を学び、元治元年(1864)ジョセフ ヒコ(浜田彦蔵)が日本で最初の民間新聞で外国新聞の翻訳「海外新聞」を発行した際に協力。慶応3年(1867)汽船を購入し廻船商社を設け江戸横浜間の運送事業を行う(我が国最初の商社と言われる)。また、慶応4年(1868)アメリカ人バン リードと共同で「横浜新報もしほ草」も発行し、日本での新聞事業の草分けとなった。また当時の中国通で、その文化交流に貢献。明治6年(1873)条野採菊の発行した「東京日日新聞社」に入社し、主筆を務めた。台湾事変のおり明治7年(1874)台湾出兵に従軍した日本最初の従軍記者で「台湾従軍記」を連載。明治10年(1877)目薬などを発明、銀座に薬品販売会社「楽善堂」を創設し「精リ水(せいきすい)」を販売し大評判となった。これが清国にも広がり、このため「興亜会」、「日清貿易研究所」、「同仁会」のなどの創設を行う。一方、盲人教育にも力を注ぎ、明治13年(1880)前島密らと「訓盲院」を開設。「清国地誌」の編纂中に病気で没する。73歳。子(四男)に洋画家岸田劉生(1891-1929)がいる。

※ 「精綺水」の販売に際し、うまい栓がなく困っていたところ、奥勝重の発明したコルク栓で解決したという。

墓は、谷中霊園乙12号7側。正面「従六位勲六等岸田吟香/夫人 勝子 墓」。「本徹院殿吟香日勝大居士」。