中川亀三郎(なかがわかめさぶろう)・初代 天保7年〜明治37年6月1日(1836-1904)
囲碁棋士。幼名、葛野長三郎。父、本因坊丈和(12世)(三男)。東京下谷出身(神田五軒町に住む)。叔父の家を継ぎ中川を名乗る。11歳で本因坊秀和に師事。20歳のころ2・3段となる。安政4年(1857)4段。文久2年(1862)5段。慶応2年(1866)6段。明治12年(1879)村瀬秀甫とともに近代的な囲碁結社「方円社」を興し、秀甫を社長として機関雑誌「囲碁新報」を発行。毎月2回の手合を掲載し、これを囲碁新報と称した。明治14年(1881)7段。明治19年(1886)秀甫没後「方円社」社長。明治31年(1898)社長を巌崎位健蔵に譲り隠居。明治32年(1899)8段。67歳。著書・共著:「囲碁大鑑」(共著)、「囲碁段級人名録」。「俊照院殿恭誉義山英智居士」。
中川亀三郎・2代/中川千治(なかがわせんじ) 明治2年12月〜昭和3年12月15日(1869-1928)
囲碁棋士。本名、石井千治。茨城県出身。「方円社」4代目社長。明治15年(1882)「方円社」塾生。明治17年(1884)初段。明治18年(1885)2段。明治19年(1886)女流棋士林佐野の養子となり林姓を名乗るが、明治24年(1891)石井姓に復す。明治34年(1901)6段。明治36年(1903)亀三郎死去にともない中川家の養子となり、中川千治を名乗る。明治40年(1907)「方円社」を脱退。同年田村保寿と第5次十番碁を行い、古島一雄により観戦記が発表された。明治42年(1909)有志と機関紙「囲碁世界」を発刊。同年7段となり中川亀三郎を襲名。大正元年(1912)「方円社」に復帰し4代目社長。大正9年(1920)社長を辞任。大正10年(1921)8段。大正13年(1924)「日本棋院」設立に参画。60歳。「覚正院転誉快楽居士」。
墓は、谷中霊園 乙6号2側。正面「中川家之墓」。