中山信安(なかやまのぶやす)    天保3年7月27日〜明治33年6月19日(1832-1900)

    新潟権令・茨城権令。旧名、修輔。父、中山信民。静岡県浜松出身。蘭学を緒方洪庵に学び、開国の必要性を説く。文久年間新徴組取締。元治元年(1864)佐渡組頭・御蔵奉行・佐渡鉱山取締などを歴任、鉱山事務を改革し、諸種の産業を奨励した。慶応の末年、各藩兵・脱兵が来て軍資金を要求する事態があり、金・食糧を支給して諭し、事なきを得る。戊辰後、佐渡県が置かれ佐渡県権判事となる。明治2年(1869)佐渡県の廃止で江戸に帰る。明治4年(1871)新潟県参事。明治7年(1874)新潟県権令。明治9年(1876)ころ茨城県権令。地租改正に反対する暴動を鎮圧したが、陸軍・司法両省は、越権行為として弾劾したため、辞官し、再び士官しなかった。正六位。69歳。夫人は、慈善家の中山幸子。養子、幸子の連れ子中山信重(実父、嵯峨根不二郎)。

墓は、谷中霊園 甲1号7側。さくら通りに面する。正面「忠徳院殿温興貴山大居士」。幸子・信重・嵯峨根不二郎墓もある。