中山幸子(なかやまさちこ)    天保12年閏1月20日〜明治41年10月18日(1841-1908)

    慈善家。父、鹿児島藩嵯峨根季重(四女)。中山信安の妻、17歳で嫁ぐ。中山信重の母。薩摩と幕府が反目する中で、新徴組取締の夫が、鹿児島出身の妻を離婚しようとしたが、幸子はこれを知り離婚されるより餓死を選ぶとして、食膳を廃し数日後、夫の知るところとなり、却ってその美徳を賞したという。維新後、慈善事業多く、「婦人共立育児会」のために私財を投じ奔走する。また「愛国婦人会」ができると、同会のために尽力する。東京育児院・淑徳女学会等の幹事。明治39年(1906)勲六等宝冠章。

墓は、谷中霊園 甲1号7側。正面「孝徳院殿温室知照大姉」。墓碑に略歴あり。同墓域に嵯峨根季重・中山信重・信重の実父嵯峨根不二郎の各墓もある。