中山誠一郎(なかやませいいちろう)     ?〜明治14年4月22日(?-1881)

    国定忠治を召し捕った関八州取締出役。嘉永3年(1850)8月24日未明、国定忠治を上州田部井村(伊勢崎市田部井町)の庄屋西野目宇右衛門邸の納屋で妾のお町の看病を受けているとき(脳溢血で足が不自由だった)捕縛し、江戸に送る。のち、甲府代官・甲府奉行。維新後は、横浜に住む。三井財閥の益田孝男爵とは、親戚関係にある。息子(下記)の譲治の妻益は、大審院判事の富永冬樹の妹であるが、もう一人の妹栄は、益田孝の妻である。

※ 関八州取締出役:、江戸時代には、武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国の関東八国を関八州と呼んだ。この地域は、大名直轄地・幕府直轄の天領・旗本直轄地が入り乱れてあり、犯罪捜査の追跡が困難で、犯罪の温床であった。これを解決するために勘定奉行を総元締とした関八州取締出役を設置。

中山右門太(なかやまうもんた)/中山譲治(なかやまじょうじ)     天保10年6月15日〜明治44年1月17日(1839-1911)

     幕末明治の外交官・実業家。名、譲治。幼名、新太郎。前名、右門太。号、酔古。父、幕臣瀬戸本太郎。江戸本所石原出身。6歳で中山誠一郎の養子となる。安政4年(1857)長崎で英学と蘭学を修める。文久2年(1862)幕府長崎英学所頭取。慶応元年(1865)横浜の仏蘭西語学所伝習生。のちフランスに渡り兵学を学ぶ。帰国し幕府小十人格騎兵差図役頭取勤方。明治3年(1870)イタリアへ渡り生糸貿易をする。明治5年(1872)2月大蔵省4等出仕。5月租税権頭。11月外交に転じイタリア総領事としてイタリアに赴く。翌年ベネチアに領事館を設け活動を始めるが、明治7年(1874)3月には廃館となり10月に帰国。12月イタリア政府から勲三等を叙せられる。明治8年(1875)宮内省5等出仕。明治9年(1876)宮内権大丞。明治10年(1877)辞官。明治18年(1885)ハワイ国政府の招聘を受け日本移住民監督総官。明治19年(1886)ハワイ皇帝からナイト コンマンドル クラウン オブ ハワイ勲章を贈られる。明治28年(1895)帰国し、東洋移民合資会社を設立。明治29年(1896)東京建物(株)監査役。明治44年(1911)日暮里の自宅で慢性気管支炎カタルで没する。73歳。妻は、富永冬樹の妹益(明治11年2月4日没)。

※ 幕府長崎英学所:江戸時代に唯一日本と交易をしていたオランダが英米に対して衰退し、ペリー来航など急きょ英語の使える人材が必要となり、安政5年(1858)7月長崎奉行支配組頭・永持亨次郎の岩原屋敷(現在の県立美術博物館辺り)内の官舎に「英語伝習所」が開設された。

墓は、谷中霊園 甲6号16側。20側寄り。正面「中山氏之墓」。誠一郎:「功禅院徳山槐翁大居士」。譲治:「謙譲院徳潤義高居士」。益:「信性院孝貞明心大姉」。