成瀬正行(なるせまさゆき)     明治19年〜昭和19年7月8日(1886-1944)

    川崎造船所・日本瓦斯等取締役。父、成瀬岩太郎(4男)。香川県出身。明治26年(1893)慶大を卒業。明治27年(1894)農商務省海外実業研修生の一員として英国に渡航。5年に亘り重工業各社の実務を学び、帰朝後は川崎造船所へ入社。のち独立して神戸に「盛興商会」を興し、機械・船具・鉄工等の直輸入を営み、欧州戦乱があり一代で巨万の富を築く。東邦電力・川崎造船所・旭石油・千歳火災海上保険・千代田火災各取締役。長良川電化・旭石油監査役。

※ 成瀬正行邸:コンドルによる建築の中で唯一鉄筋コンクリート造り。大正8年(1919)暮れに落成。成瀬正行は神戸に居住していたが、友人の英国新聞日本支社長死去に際し、請われて故人が有した広尾(麻布区)の土地を購入。土地には丹精こめた広大な庭園があり、これを生かした邸の設計をコンドルに依頼。 昭和5年(1930)7月14日には、フランス共和国独立紀念祭が成瀬正行邸に於て開催、渋沢栄一も出席して同国大使と会見している。のち、成瀬正行は世田谷の桜新町に移り、邸は昭和15年(1940)堤康次郎が取得。総理大臣別邸として貸与していた。、通称「大東亜迎賓館」ともいわれ、大東亜戦争前の一時期、南京政府の陳公博・英領インドのチャンドラ ボース・蘭領インドシナのスカルノ・当時の閣僚東条英機・重光葵・藤原銀次郎などが利用した。 のち空襲で昭和19年(1944)5月の空襲で堤邸は全焼。邸門、門衛所、石堀だけが焼け残った。 堤康次郎は、大資本家でもなく公職追放処分も受けず、解体された10財閥に代わる新興コンツェルンを築き上げ、没後を引き継いだ堤清二が、セゾングループを作った。グループの迎賓館「米荘閣」を2年がかりで完成させたが、バブル崩壊により不要化した迎賓館は、土地ごと売却された。そして、わずかに残っていた邸門、門衛所、石堀も消滅した。

墓は、寛永寺谷中墓地。青山胤道墓うら。正面「成瀬氏之墓」。「随信院釈行円信士」。