那須資徳(なすすけのり)     寛文12年〜宝永5年6月25日(1672-1708)

    下野国烏山藩2代藩主。初名、政直。通称、主殿・与一資徳。父、弘前藩津軽信政(三男)。母、増山弾正少弼正利の娘。正室、花房正矩の娘。長男、那須資隣。天和3年(1683)那須資弥の養子となる。12歳のとき将軍徳川綱吉に拝謁。実子があるのに養子を後継ぎとしたことがバレて貞享4年(1687)改易となる。改易後は、屋敷・長屋・厩、さらには柳沢吉保への進物代まで津軽家の経済援助を受ける。元禄13年(1700)赦されお家再興がなり寄合旗本・小普請になる。元禄14年(1701)下野国那須郡内1000石(のち3000石)を賜り、宝永元年(1704)那須家存続のため花房右近正矩の娘と結婚し、お初(享保7年歿:慈妙院)・豊丸(資隣)・福原鉄之進(早世)・おてま(早世)を設ける。のち子孫世世寄合に列する。那須党の上座に列し、老中支配となる。37歳。

墓は、養寿院谷中墓地。乙8号3側前を入る。正面「宝永五年戌子/清光院殿月峯常心大居士/六月二十五日 霊位」。