納屋美算(なやびさん)     弘化4年2月24日〜昭和8年6月10日(1847-1933)

     正岡子規の最晩年の写真を撮影した人。別名、納屋才兵衛。美濃大垣出身。飯沼家に生まれ、桑名で「納屋才」を屋号にし魚介類を扱っていた中島家の養子となり、明治中期に納屋姓に改姓。家業の傍ら写真を始め、祖父飯沼慾斎(美算の養父中島孫左衛門の実父で祖母の兄)の甥小島柳蛙のもとで写真術を修業。桑名で初めての写真館「笛橋堂」を開く。写真は飯沼長蔵(美算の実兄)の影響に拠るものと思われる。上京して根岸に写真館「春光堂」を経営。一家をなす。87歳。

※ 古書に「根岸の先生(平田篤胤)は一本橋の北、2〜3丁先田圃の中に住せり」とあり、この一本橋は、写真館「春光堂」前にあった。また、一本橋の下を流れる川は、音無川と思われる。なお、平田篤胤は本居宣長らの後を引き継いだ国学者で、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となる。飯沼慾斎に関してはウィキペディアを参照のこと。

※ 小島柳蛙(こじまりゅうあ): 文政3年(1820)に小島当三郎と蘭学者飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の妹登喜(とき)の子として美濃国に生れ、飯沼慾斎に化学を学ぶ。万延元年(1860)先に江戸に遊学に出た兄を頼って上京、外国人から写真術を伝授され、文久3年(1863)に名古屋で尾張藩の儒学者細野要斎を撮影。明治4年(1871)に郷里の伊奈波(いなば)神社口に写場を開設。

墓は、谷中霊園 乙11号8側。飯沼長蔵墓と同域内。正面「納屋美算之墓」。