飯沼長蔵(いいぬまちょうぞう)     天保11年〜明治29年9月25日(1840-1896)

    江戸時代末期の教育者。大阪理学校教官。内務省衛生技師。飯沼慾斎の長男飯沼長恪の養子となり飯沼長蔵を名乗る(義父長恪が慾斎の義弟長栄の養子となっていたため戸籍上は曽孫)。明治5年(1872)大阪理学校が廃校になったのにともない、その教官を辞め大垣に帰り、俵町に住んで某学校長に勤務した新進気鋭の理化学者。また、この年、わが国の本格的な定量分析書の最初となるドイツのフレセニウスの定量分析書を翻訳し、「定量試礦撰要」全2巻を刊行。明治7年(1874)「新訂草木図説」を刊行、田中芳男が緒言をかいている。また、のちに田中芳夫・小野職愨・久保弘道・横川政利らが改訂を行っている。出版が終わった後、秋田師範学校に赴任。このとき、「新訂草木図説」の校正本と稿本とは兄飯沼長温に託された。また、長蔵は、再び大垣に帰ることなく東京で没する。57歳。

※ 飯沼 慾斎(いいぬま よくさい:天明2年6月10日〜慶応元年閏5月5日)は、江戸時代の医家で本草学者。詳細は、ウィキペディア参照のこと。

墓は、谷中霊園 乙11号8側。酒井愛子墓(撤去済み)の後ろ。正面「飯沼長蔵/同 有多子 墓」。飯沼長蔵の実弟納屋美算の墓も隣接し、墓碑の略歴に慾斎のことが触れられている。