西村郡司(にしむらぐんじ)     文化11年9月23日〜明治28年1月31日(1814-1895)

    印旛郡八街(やちまた)開発の先駆者。名、七右衛門のち郡司。武蔵国北足立郡(埼玉県)出身。18歳で江戸に出て、西村三郎兵衛の養子となり、深川に居住。横浜開港に際し、横浜で貿易商を営み、維新政府に軍費1万両を寄付。富豪にも新政府協力を呼び掛ける。明治2年(1869)失業窮民救済事業として小金・佐倉両牧などの開墾会社設立に伴い、三井八郎右衛門らと共に頭取となる。8番目の入植地という意味でコロニーは”八街”と命名された。開墾の事業は苦難を極め、定住を諦める者が続出。明治5年(1872)会社が解散。その後も私財を投じ八街・三咲・九美上などの地区の開墾を続けた。地元民の地権者との争議を収め、地主となり、学校を設立するなど、公衆の利益を興し防海の事業をおこなう。紺綬褒章および銀製黄綬褒章受章。82歳。

墓は、谷中霊園 甲8号13側。小平浪平墓前。このブロックは、”西村”が多い。正面「西村郡司/西村八重子 招魂碑」。没年日は、木が邪魔で撮れない。