丹羽賢(にわまさる)・丹羽花南 弘化3年5月3日〜明治11年3月20日(1846-1878)
幕末の政治家・新政府の官吏・詩人。通称、淳太郎。幼名、錠太郎。字、子覚・大受。号、花南・大受。父、丹羽佐一郎氏常(丹羽閑斎)(長男)。母、同藩年寄高木八郎左衛門(大翁・雪居)の女筐。名古屋城下長堀町出身。6・7歳の頃から漢学を憤慨家国枝松宇(蝋燭商国枝老足)、詩を森春濤、画を外祖父高木雪居に師事。文久年間に江戸で松本奎堂に師事する。この頃から尊王攘夷派となる。藩老田宮如雲に書を送り、幕府の失政を論じ、藩主徳川慶勝にすすめて将軍徳川慶喜に大政奉還を建言させる。のち、奥田鴬谷・森春濤に師事。藩校「明倫堂」教授。元治元年(1864)征長の役に従軍、慶応2年(1866)名古屋の西洋織物などを扱う紅葉屋乱入事件を起こした。しかし、王政復古後は、明治元年(1868)単身で二条城の無血接収にあたり、青松葉事件を起こし、新政府支持に転向。以後、東京府判事・名古屋藩権大参事のち参事・安濃津県参事・三重県権令・司法少丞兼権大検事・司法権大丞、五等判事・四等判事などを歴任し明治10年(1877)退官。従五位。33歳。大正2年(1913)従四位追贈。著書:「花南小稿」(没後、田中不二麿により刊行)。
墓は、谷中霊園乙4号5側。南寄り。墓碑銘は長三洲(廿火)書。川田剛撰文。明治14年(1881)建。同一区画に父丹羽閑斎(丹羽氏常)墓、北海道銀行頭取丹羽維孝墓がある。