野田豁通(のだかつみち) 弘化元年〜大正2年1月6日(1844-1913)
陸軍主計総監・弘前県大参事・男爵。通称、大造。父、細川藩(熊本)産物方頭取石光文平(三男)。15歳で野田淳平の養嗣子となる。文久元年(1861)藩御勘定方となる。政治思想家横井小楠(1809-1869)を慕って京都に出て門下となり、勤王倒幕思想を持つ。戊辰戦争では細川藩は官軍側につき豁通も征討大総督軍の一員として奥羽を転戦し、箱舘戦争でも榎本武揚軍と戦い活躍した。明治元年(1868)陸軍参謀試補兼軍事会計総轄。平定の後、兵部省出仕。兵部少録を任じられ胆沢県少参事。弘前藩も官軍側についた実績を背景に政府に働きかけ明治4年(1871)旧八戸藩、旧七戸藩、旧斗南藩と旧弘前藩の合併を推進し、弘前県を誕生させ、弘前県大参事に野田豁通がなり現在の青森県の原型を作った。まもなく県庁を弘前から青森に移転。このとき奥羽の地方行政官に就いた細川藩士は他に安場保和、喜悦氏房、山田武甫がいて、いずれも横井小楠の門下だった。明治6年(1873)再び陸軍省に出仕、陸軍会計官史。明治10年(1877)西南の役には征討第3旅団会計部長として出征。陸軍軍吏正として鹿児島の役に出兵。のち、陸軍会計副監督長。明治18年(1885)ドイツ留学(一年)。帰国後は軍の改革に尽力した。明治24年(1891)陸軍省経理局長。明治28年(1895)陸軍主計総監。明治34年(1901)予備役。のち男爵、貴族院議員。東京本郷の自宅で死去。正三位勲一等功三級。70歳。著書:「野田男爵函館戦争実歴談」。
墓は、谷中霊園乙14号1側。正面「陸軍主計総監男爵野田豁通墓」。