小笠原長行(おがさわらながみち)    宝暦2年〜文政5年(1752-1822)

    肥前唐津藩主。父、藩主小笠原長昌(長男)。幼名、行若(みちわか)。号、明山。大野右仲の父大野肯堂に師事。大野肯堂は小笠原長行が次期藩主になるためにも奔走した。紆余曲折を経て36歳で5代藩主長国の養子となり、老中にまで出世。「安政の大獄」に関し、井伊直弼らの追罰を企てる。「生麦事件」を賠償金により解決するが、免職となり江戸で閉居。「池田屋事件」、「金門の変」などが起き、謹慎を解かれ第二次長州征伐の指揮官となるが失敗。一時引責し辞職するが復帰。しかし「鳥羽伏見」の敗北で老中を辞し、転々と逃れ榎本武揚のいる箱館に行くが、官軍の攻撃を受け、英国船で箱館を脱出、浦賀に逃げ、身を隠し東京湯島や深川で過ごした。

墓は、谷中霊園乙4号1側。