岡本文弥(おかもとぶんや)    明治28年1月1日〜平成8年10月6日(1895-1996)

    新内節浄瑠璃太夫・作曲家・俳人。本名、井上猛一。前名、岡本宮太夫。父、土木業井上源次郎。母、3代岡本宮染(おかもとみやそめ:1865-1950)。東京根津出身。早稲田大学文科中退。母、母方の伯母2人、父方の伯父が何れも新内語りで、母から手ほどきを受ける。編集者などいくつかの職業を転々とし、富士松加賀太夫の社中に入り、富士松加賀路太夫を名乗る。古今新内界のビッグ・スリーとして江戸明治期の鶴賀若狭掾・富士松魯中の2人に加えられている。大正13年(1924)加賀太夫の社中を脱退。明治に途絶えていた岡本派を再興して岡本文弥を名乗り、4代目家元となる。新内の普及、古曲の復活、新作の創作で、新内演奏家として活動。第2次大戦中は、多数の左翼系作品を発表し、築地小劇場で、新内「西部戦線異常なし」を口演、”赤い新内”と呼ばれ、官憲の弾圧に遭った。その後も平和反戦活動として「ノーモア・ヒロシマ」(「人間を返せ」)や従軍慰安婦を扱った「ぶんやアリラン」などを発表。昭和32年(1957)台東区無形文化財となり、芸術選奨文部大臣賞をも受賞。紫綬褒章授賞。正岡容、八代林家正蔵とも親交があった。70年代に訪中し、中国曲芸とも交流、100歳まで年一回の訪中を続ける。なお、エッセイストとして多数のエッセイ集を出版している。101歳。代表:「今戸心中」、「十三夜」、「鶴女房」、「富本豊志賀」など。著書:「新内浄瑠璃正本考」。

※ 新内節は江戸浄瑠璃の1つ。江戸時代の中ごろ豊後節(ぶんごぶし)から派生。「新内」の名は、宝暦から明和年間(1751-1771)のころ人気のあった鶴賀新内(つるがしんない)の名前からつけた。駆け落ち・心中など男女の恋にからむ人情劇の抒情豊かな語りにとくに人気があった。

文弥の俳句に下記がある。
     言うことの歯切れのよさの涼しさよ
     夕顔や古風を目ざす芸渡世

岡本宮染(おかもとみやそめ)・6代 大正元年?〜平成17年1月4日(1912?-2005)

     新内岡本派6代目家元。本名、井上志づ子。先代家元岡本文弥師の相三味線として活躍。93歳。

墓は、自宅前の妙福寺墓地 (谷中1-7-41)。本堂裏墓地の右奥の奥墓地。奥墓地入口から左側すぐ。俳句の板碑がある。正面「新内/岡本之墓」。妙福寺前の通りは、三味線の音色が絶え間なく流れているので、「おけいこ横丁」と呼ばれている。文弥:「妙聲院誓音日文居士」。宮染:「法絃院妙和日静大姉」。