大原重徳(おおはらしげとみ)    享和元年10月16日〜明治12年4月1日(1801-1879)

    幕末の宮中政治家・公爵。字、徳義。幼称、幼称常丸。父、権中納言従二位大原重尹(しげのぶ)(五男)。母、権大納言正二位唐橋在家の娘光子(五男)。正三位大原重成の養子。京都出身。文化2年(1805)叙爵。文化6年(1809)光格天皇の侍童。文化12年(1815)元服し尊王論のリーダーとなる。天保元年(1830)右近衛権少将、のち中将。孝明天皇に重用され内裏火災後の造営を監督。ハリス来日により日米通称条約の勅許問題では、強硬な攘夷論を展開。島津久光の建策で公武一和を目的とした幕政改革推進のため文久2年(1862)孝明天皇の勅使として一橋慶喜らの政事総裁職任命を実現させた。しかし、文久3年(1863)先の勅使時に薩長融和のため島津久光を批判する部分を削除し、勅書改ざんを責められ出家した。元治元年(1864)に許され還俗し官職に復帰。慶応2年(1866)新幕派の追放を企て失敗し幽閉となる。慶応3年(1867)許され参議となる。その後も勤王に奔走、明治元年以後、その功により参与・議定・集議員長官などに任ずる。麝香間祗候。79歳。贈正二位。生前の功績を録して神道碑を賜る。

墓は、谷中霊園 乙6号5側(都史跡)。墓地内に巨大な載仁親王撰文碑がある。通路寄り。