大橋佐平(おおはしさへい)    天保6年12月22日〜明治34年11月3日(1835-1901)

    博文館創業者。初名、熊吉。父、材木商大橋又七(二男)。越後長岡出身。22歳で三国屋佐平と称し酒屋を営み、長岡藩御用達となる。戊辰の役では、長岡藩は幕府側についたが、佐平は藩内の恭順派と謀って両軍の間を取り持つが、士族に迫害を受けた。維新後は、越後府水原県の御用掛・民政所軍事方・英学事方に登用されるが辞し、明治5年(1872)有志と共に「洋学校(長岡中学校の前身)」を創設。明治14年(1881)「北越新聞」についで「越佐毎日新聞」を刊行。明治19年(1886)東京に移り、翌年三男新太郎と「博文館」を創設。「日本大家論集」・「日本之数学」・「日本之女学」を発刊。その後も多数の雑誌・書籍を発刊。明治26年(1893)海外諸国を周遊。帰国後、書籍取次業「東京堂」を開店。のち、「内外通信社」を創設。日清戦争が起きるや「日清戦争実記」を刊行し博文館の基礎をなした。明治34年(1901)大橋図書館を設立(没後竣工)。私立図書館の先駈となる。67歳。娘婿に大橋乙羽がいる。三男大橋新太郎は、博文館社長。

大橋松子/大橋松     天保11年10月〜大正6年1月9日(1840-1917)

     父、越後国の上村新左衛門(長女)。文久元年(1861)大橋佐平に嫁す。夫佐平は勤王家として佐幕派の藩主に睨まれ、捕り方に家を囲まれたとき、布団に夫をくるみ、二階から落として逃れさせたという。のち運送業を始めると半纏を着て人足とともに働く。夫の事業に協力し、明治14年(1881)「北越新聞」の発行を助け、「越佐毎日新聞」の発行に際し、魚沼郡下に出張して資金集めに尽力するなど、賢夫人として知られる。78歳。

墓は、養福寺墓地(西日暮里3-3-22)。山門より本堂に向かい左側の墓地。本堂に沿って行き、突き当り手前の大きな桜の木の前の通路を左に曲がり、突き当りの2つ並ぶ大きな墓碑の右側。佐平:正面「大橋佐平之墓」。「如実院唯心一阿居士」。松子:正面「大橋松子之墓」。「松徳院殿但念妙和大姉」。