大田晴軒(おおたせいけん)/大田敦(おおたあつし) 寛政7年〜嘉永3年2月19日(1795-1850)
江戸末期の儒者。名、敦。字、叔復。通称、魯三郎・魯佐。父、大田錦城(三男)。石川県出身。父、錦城に学ぶが多忙のため8歳で父の門人泉勇八らに就いて論孟の句読を習う。折衷学派。天保年間は三河吉田藩主松平信順に招聘され藩校「時習館」の儒者。傍ら多紀氏らに就き刀圭(医薬学)を学ぶ。一方、浜町に道場を持つ剣士でもある。関西を遊し諸儒を研究しているとき、吉田藩を通ると、藩主に厚く迎えられ、ついに三河吉田藩の藩校「時習館」教授となる。著書:「三経小伝」、「老子全解」。
墓は、一乗寺墓地(谷中1-6-1)。正面「清徳院是学日賢居士/随賢院妙是師学大姉」。歿年は諸資料と異なるが、墓誌による。