大友義孝(おおともよしたか) 寛永18年〜正徳元年9月18日(1641-1711)
江戸幕府高家旗本。字、鶴千代・孫三郎・内蔵助。号、朴庵。父、祖父大友義統の子である肥後熊本藩細川家家臣松野正照(三男)。徳川和子に仕えた佐子の局(大友吉統の娘)の養子。明暦3年(1657)覚深法親王(仁和寺)が幕府に頼み蔵米500俵で寄合になった。元禄元年(1688)表高家に列し、下野塩谷郡内に1000石を知行。元禄2年(1689)表高家となり、従五位下近江守に叙任。元禄6年(1693)従四位下に昇進。元禄10年(1697)高家肝煎吉良上野介義央の見習となり、すぐに同格の高家肝煎となる。元禄11年(1698)京都への御使を勤める。元禄14年(1701)赤穂事件の関係で高家肝煎を解任されて、寄合になる。同年9月28日表高家並に出仕。翌年12月28日高家末席に列することを許可される。宝永元年(1704)隠居し、次男大友義閭に家督を譲る。正室は、老女岡局の養女。71歳。
墓は、玉林寺墓地(谷中1-7-15)。墓地入口の階段上を右に行き、突き当り高台にある大きめの笠塔婆群の中にある。正面「高徳院殿中太夫前拾遺補闕兼江州刺史讚峯能賢大居士」。墓碑裏面「大友義孝墓」。長男大友義泰墓もある(貞享4年、父に先だって死ぬ)。