酒井忠邦(さかいただくに) 嘉永7年1月15日〜明治12年3月25日(1854-1879)
姫路播磨藩第10代藩主(大名)・伯爵。名、忠邦。幼名、直之助。通称、班蔵。号、裕斎。父、伊勢崎藩主酒井忠恒(1639-1675)(八男)。兄、伊勢崎藩第9代藩主酒井忠影。江戸藩邸出身。姫路藩は佐幕派だったため新政府の命令に従えず第9代藩主酒井忠惇は、自分は退き忠邦を養子として藩主とし明治元年(1868)姫路藩15万石を安堵された。藩老河合屏山の説に従い忠邦は新政府に帰順し、御用金の献上・東北への出兵を願い出、数々の救解に努めた。また、藩内に残る佐幕派の処分を行い、難局を切り抜けた。薩長土肥の4藩が連署して版籍奉還を建議するより前に率先して版籍奉還を建白し、明治2年(1869)皇居警衛・東京市中取締。6月版籍奉還により姫路藩知事となった。明治4年(1871)7月廃藩により解職となり姫路藩は消滅した。以後、東京に出て慶応義塾に入学、芳野金陵に漢学を学ぶ。同年11月アメリカに留学し、4年後に帰国したが病にかかり死亡した。従四位下。贈従三位。26歳。夫人の鏐子(よしこ)は、雅楽頭酒井忠顕の長女。西尾忠篤の養女。
墓は、谷中霊園乙8号14側。正面「従四位酒井忠邦墓」。